咀嚼


頬と臼歯
 あごの形成とともに、動物の消化管の前端には、一つの部屋(口腔)ができる。この口腔の壁は、新生代の幕あけとともに登場した新顔の動物である哺乳類では二重になる。すなわち、上下のあごを外側からおおって、くちびる(唇)と頬のやわらかい肉が形成され、魚類や両生類・爬虫類とは、著しくそのようすが異なってくる。かれらはこれによって、うまれおちた直後から、母親の乳房に吸いつき、舌と共同して哺乳を行なう。このことから、くちびると頬は哺乳動物を象徴するものとなり、人類ではこれらがことに豊かな発達をとげる。
 一方、魚類や爬虫類の歯は、すべて同じ形であるが、哺乳類では前歯と奥歯の区別が現われる。ここでは前歯(切歯)で獲物をかみ切り、奥歯(臼歯)でこれをかみくだき、さらにすりつぶすという分業がはじまる(図U8)。この場合、食物をすりつぶす臼歯の両側から頬と舌の筋肉が、たくみにこねどりを行なう。(図U・9)
 こうして、かみくだかれた肉はそのまま胃へ送り込まれるが、穀類(糖質)は口腔内でつば(唾液)の分泌を受け(唾液腺)、その大半が分解される。すなわち、胃でタンパク質の予備消化が行なわれたように、口の中では糖質の予備消化が行なわれるのである。したがって、唾液腺が本格的に発達するのはこの哺乳類からで、ここではじめて(咀嚼)という口腔内消化作業がはじまるのである。ヒトの〈唾液腺〉は、舌・下顎骨・耳たぶのそれぞれの下に、左右一対ずつ形成されるが(舌下腺・顎下腺・耳下腺)、これらは舌の下や頬の内面にそれぞれ口を開く。

舌と手
 古生代の終わり、石炭紀の古代陸地へ、脊椎動物がはじめて上陸したとき、かれらのあるものは、今日のカメレオンなどのように、舌を使って獲物をとらえていたことが想像される。
 すなわち、水中の魚に見られるような自由自在の捕食運動が、陸上では著しい制約を受け、それがため、はじめて口の底から筋肉の塊(舌)が突出して、捕食に専念するようになったことがうかがわれる。
 ところで、われわれの口からのどにかけての筋肉は、すべて腸管の壁の筋肉の延長で、植物性筋肉に属する。これにくらべ、舌の筋肉は体壁の筋肉がくびの前面から口の底にもり上がったもので、あくまでも動物性筋肉の一部と考えられる。したがってこれは、体壁から手足が突出することと同じ意味をもったもので、舌はロの中にはえた腕ともいうことができよう。
 “のどから手が出る”というのは、このことを表現したものであろうか。
 このように、上陸当時は舌で行なわれた捕食運動が、やがてくびができて自由自在に動くようになると、それが捕食の主役となるが、なかにはゾウのように、鼻の筋肉がこの役をひき受ける場合もある。
 こうしたなかにあって、特に霊長類では、個体運動から解放された手が、しだいにこの任にあたるようになる。つまり、手でつかんだ獲物を口まで運ぶことであるが、ついにヒトではこの手をもちいて料理をはじめるようになる。すなわち切り刻み、あるいは火にかけて、やわらかく食べやすい食物にかえるのである。

そしゃく器の退化

 動物たちが、口の中で行なっていたそしゃく(咀嚼)の一部を、料理という形で手が代行するようになると、ヒトのそしゃく器はしだいに退化をはじめる。たとえば、歯という組織は、あごの骨にしっかり植えつけられた、いわば角のようなもので、もっぱらかたいものをかみくだくことに生きがいを見出しているひとつの生きものと考えられる。したがってこの生きものも、やわらかい食事のたびごとに自分の出番を失うと、そこには退化による一種の適応が行なわれるようになる。すなわち、魚類では一生涯はえかわりつづけた歯が、ついには一度しかはえかわらなくなり、そして大臼歯にはそのかわりもなくなる。しかも、いちばん奥の第三大臼歯(親しらず)は、人によっては、はじめからはえない場合すらある。これは歯の数に、すでに減少の傾向が見られることを意味し、あごの骨の退化と並行した現象と考えられよう。
 一方、やわらかい食物の影響で、歯を顎骨(がっこつ)に植えつける線維がしだいに退化し、歯の根がゆるむこともある(歯槽膿漏)。これは、人間に飼育される動物たちにも見られるという。
 人間の〈おとがい〉は、以上のように下顎骨、特に歯のはえる部分(歯槽部)の退化によって、相対的に突出したもので、小さなロとともに人類の象徴とされている。これは、ゴリラの堂々たるそしゃく器、特にその筋肉の付着する頭蓋(とうがい)の隆起が、獣性を表現することと対照的であろう。