鰓呼吸から肺呼吸への歴史

 ただいまご紹介にあずかりました芸大の三木です。以前秋葉原の会場で、鰓呼吸と肺呼吸の話をしましたが、広い範囲の話を短時間のあいだにあれもこれもとお話しして、アブハチ取らずのようになってしまって貴重な実習の時間まで食い込みまして申しわけなかったと思っております。
 その時、動物のからだには二種類の筋肉があることを申し上げました。一つは動物性の筋肉であります。もう一つは植物性の筋肉であります。動物性の筋肉と申しますのは手足を動かしたり、胴体を動かしたり、つまりエサに向かって進んだり、敵から逃げる筋肉で、個体運動に関する筋肉であってわれわれが肉屋さんで買って食べる筋肉であります。それに対して植物性の筋肉と申しますのは内臓と申しまして、すべて管からなっておりまして、その管の嬬動運動をつかさどっている筋は植物性の筋肉であります。その非常によく発達しているのが、例えば心臓の筋肉とかあるいは子宮の筋肉とか胃袋の筋肉でして、こういった筋肉はヤキトリ屋さんでモツといって売っております。これは昧が少し落ちます。その代わり機能的には非常に根強い機能、一生涯夜も寝ずに働き続けても少しも弱ることがありません。
 われわれの心臓も胎児のごくわずかの一、二週間あたりからお腹にいるあいだ、それから生まれてきてから百年以上も働き続けて、一瞬も休むことがない。その代わりこの筋肉は非常に鈍重なところがありますのであまり急の場合には間に合わない。
 これに対して、われわれの個体運動を行います動物性の筋肉は、非常に疲れやすい。ちゃんと二十四時間のリズムで、地球と太陽の相関的なリズム、休息と活動の波を描いている。この筋肉はまた非常に敏速で瞬発的な力がある。そういった点は内臓の筋肉に比べると問題にならない。
 呼吸運動は夜のあいだでも、休むというわけにはいきません。心臓と同じように一生涯働き続けなければならない。したがって、呼吸の筋肉は当然植物性の筋肉でなければならない。これを動物性の筋肉でやると大変なことになってしまいます。
 その意味で魚の鰓呼吸というのは消化管の腸管、その腸管の最先端が鰓になっている。したがって鰓の筋肉は植物性の筋肉であります。
 その鰓の運動がいかに根強くて規則正しく鰓呼吸の運動をやっておりますかは、上野の不忍池に水族館がございますがそこの最初に入ったところに大きな水槽があります。そこにサメが泳いでおります。そのサメの頸の横に鰓孔が五つほどあいております。その鰓孔の動きは非常に規則正しく力強い。ちょうど心臓の搏動と錯覚を起こすほど絶対に休むことがありません。たまに一遍くらい休みますとびっくりするほど、それほど鰓の運動は正しくやっております。
 ところが、今から三億年の昔、動物が古生代の終わりに上陸を敢行しまして、その時に呼吸の器官にものすごい一大革命が起こりました。つまり鰓呼吸から肺呼吸に変わるのです。そして肺の表面には植物性の筋肉は完全になくなってしまいます。気管支の末梢の方にわずかに植物性の筋肉が残っているだけで、肝腎の肺を絞る運動は植物性の筋肉ではなくなってしまい、われわれのからだをつくっている胸の筋肉や腹の筋肉、つまり動物性の筋肉でやらなければならなくなりました。
 ここから陸上動物の呼吸との争いが始まってくるといったことをこの前に話しました。つまり一生涯、鰓呼吸をしていれば、このようにいかに呼吸するかという集まりなど持つ必要はなかったということになります。

 今日はこの丹田呼吸を循環器系の側から眺めてみたいと思います。つまり一方では肺の呼吸運動に参画しながら一方ではお腹全体を一つの心臓として働かせる。これは村木先生の書かれた本にもそれからいすゞ自動車の清水先生の書かれた「機械工学からみた人体構造」という論文の中にもあります。
 人間のからだには心臓が三つある。一つはわれわれの心臓、一つは横隔膜、もう一つは筋肉である。つまり三つの心臓がある。ふつう医学部の生理学の授業では循環器というのは心臓と動静脈、だいたいこれで終わっております。こういった心臓のほかに第二、第三の心臓があるということはいわゆる古典的な教科書には書いてございません。しかしながらあらためて丹田呼吸の世界からこれを見ますと、この見方というものは正しく脊椎動物の形態学の真髄をうがった言葉であるというほかはありません。
 われわれは外から栄養を取り込んで吸収してからだの中にできた老廃物を排出している。この入る、出る、人出の双極、このことも前に申し上げたと思います。
 ケインズの経済学というものがあるそうです。これはいかにして貯め込むかということを経済学部の四年間に徹底的に教えられるそうですが、しかしいかに使うかということは教えてくれない。つまり人間というものは慾の塊で貯めるということを一生懸命教えているが、出すことは考えない。それはちょうどヨーロッパのカロリー学説、何カロリーを取るかということだけ考えて、からだの中に糞と小便が充満してどうしようもなくなるということは考えていない。つまり、十取り入れれば十出さなければならない。この考え方がヨーロッパのカロリー学説には半分抜けております。そのくらいヨーロッパ人というものは食べる条件が非常にわれわれ豊葦原の瑞穂国と違って厳しかったのだろうと思います。
 とにかく、入る方と出る方、この一つの双極、もう一つの別のルートの双極があります。すなわち酸素を取り入れて二酸化炭素を排出するということがあります。
 つまり、栄養、呼吸、排出という三つの機能をもっとも能率よく結びつけるものとして循環系があります。循環系がなければどの機能も働かない。本来心臓と申しますものは魚の鰓、ここに血液を送り込むためにできたものであります。ここに第一の心臓はできます。
 それで第二の心臓はどこにできるかと申しますと呼吸した栄養分をからだ全体、つまり鰓の心臓の助けをかりて主として脳や筋肉に送り込むために栄養素の心臓、調和息でいう腹の心臓ができます。お腹の中を一つのスポンジとして、お腹のスポンジをぎゅっと絞り出してやる。調和息というものは、これは心臓の搏動運動にたとえることができます。つまり腹腔を一つの巨大な心臓として一つの搏動運動にたとえることもできます。
 もう一つの排泄運動、これは筋肉で、特に窒素代謝産物と二酸化炭素が生まれます。
 この筋肉にできたものを心臓を経由して腎臓に送ってやる。あるいは肺臓に送ってやる。つまり筋肉から心臓までその老廃物を運び込むものとしてあらゆる個体運動があります。われわれはマラソンをしたり、体操をしたり、あるいは踊ったり、いろいろとからだを動かすことで筋肉に生じた老廃物を心臓まで運んでやる。これが第三のポンプの働きであります。
 つまり、からだを動かすことと調和息と心臓の働き、この三つの動きがよくできるとわれわれのからだは支障なく運営されるのであります。いいかえれば、第一の心臓、第二の心臓、第三の心臓はこの通り見事な型で生理学的に説明がつくと思います。
 この場合、魚は非常に能率的にこれをやっている。つまり個体運動としてシッポを動かすという一つのかたちで行っています。天の配剤というか素晴らしい個体の機能です。それで一方は心臓で血液を鰓に送ってやればよい。鰓の運動は植物性の筋肉で完全にやっています。魚の個体体制を見ますと、どこをとっても非の打ちどころのない完璧なものであります。シッポを振って泳いでいさえすればすべて解決してしまう。それが陸上に上がってきて、個体運動と調和息をやらなければいけないようになった。ここに問題を生じたものと思います。

 さて、ここでは図Ⅱ-9を用いましてこの第一の心臓、第二の心臓、第三の心臓について説明します。まず腸管とありますのは消化管のことです。消化管の前の部分で孔の並んでいるところが魚の鰓の部分です。ここで食物の栄養が吸収されます。次に、この腸管の上に動物器官を代表するものとして神経管(脳・脊髄)がある。この神経管とそのまわりの筋肉が栄養をたくさん必要とする。また酸素を多く必要とする。そして二酸化炭素と尿の素をたくさん出します。一方、この図には「肝腎」という言葉で表現される肝臓と腎臓があります。肝臓は腸から吸収された栄養物を、腸の下を走っている静脈を介して全部吸収します。この栄養物が肝臓の関所を通過しますとからだに有害な物質が取り除かれて、初めて血となり肉となる有効なものだけになります。
そしてこの有効な栄養物が心臓にやってきます。心臓は呼吸器の鰓に血液を送る一つのポンプであります。そのポンプによってガス交換が行われて酸素が取り入れられ、酸素と栄養物の満載された動脈血が大動脈へ噴出してくる。この血液は大切な血液であり、これが動物器官を養う。すなわち筋肉や脳神経を養うわけです。これでわれわれのからだを動かすことや頭を働かせることができるのですが、そこから再び静脈血が帰ってきます。この静脈血は老廃物と二酸化炭素、つまり有害なものをたくさん持って再び一本の太い静脈に集まってきます。そしてこれが腎臓の浄水場を通過してきれいになって、ここで肝臓を通過したものと一緒になって静脈洞に集まる。ここは心臓の入口の非常に大切な場所です。われわれ人間のからだではこの図のように静脈血が直接腎臓に流れ込む形をとりません。新しく腎動脈というものができてこれが代わって働いているのですが、原始の脊椎動物や胎児を系統的に解剖してみますとこのようになっています。
 これでわかりますように、肝臓が入口の関所であり、腎臓が出口の関所であるということです。すなわち肝腎という前後の関所がわれわれのからだを守ってくれていることになるのです。
 ここで大切なことは、静脈というものは心臓のポンプから遠く離れて搏動というものがありません。つまりここには圧力がかからない。しかもこの圧力のかからない静脈が肝臓、腎臓という非常に分化した関所をくぐり抜けなければならない。ですから
この静脈には必然的にものすごいうっ血が起こるわけです。それで第二、第三の心臓ができたというわけです。つまり肝臓に入っていく肝門静脈と腎臓に入っていく腎門静脈の両者に対する「搏動装置」が動物のからだには自然に備わっているのです。
 前にも申しましたように魚の場合はこの二つの門静脈に圧力をかけるためにかれらは尻尾の運動をやっています。いいかえれば、かれらの場合は泳ぐだけで第二、第三の心臓が脈打つことになる。実に便利にできています。ところがこちらはからだの一つの体操によって圧力を加えていくしかない。ここから調和息が生まれたものと思います。すなわち、まず腹腔全体を一つの心臓ポンプと考え、これをぎゅっと横隔膜と腹壁の筋肉を握りしめて、肝臓から心臓へ血液を絞り返すのです。そしてこの時全身の筋肉が連動して、そこにたまった老廃物をそこから心臓まで絞り返すのです。

 次に、再び図Ⅱ―10を用いまして、調和息の要ともいうべき横隔膜の問題について振り返ってみたいと存じます。そもそも横隔膜とはどこからきたかと申しますと、蛙ののどを見ると、そこはふくらんでいる。かれらはここに息をためて、この筋肉で肺の中に空気を送り入れる。つまり頭の前面の筋肉を使って、肺に空気を入れたり出したりしているのです。要するに蛙は頸で呼吸している。
 ではいったい、この蛙の頸の筋肉が人間ではどうなっているのでしょうか? もちろん、同じものがわれわれの頸の前面に短冊のように左右一本ずつ平行に走っております。ところが人間ではこの筋肉が胸のところでなくなり、再び腹直筋となって、お腹の正中を下がり、やがて骨盤の出口の筋肉に変わる。ずっとこのようにからだの前面正中線に沿って二本並んで走るのです。
 われわれ人間の外陰部の複雑な筋肉や肛門の筋肉は、要するにこの頸から腹にかけての筋肉の一番下の部分に当たる。そして話のついでですが、舌を動かす、これも複雑な筋肉ですが、この舌の筋肉は、反対に一番上の部分に当たる。つまり舌から頸・腹を通って陰部までこの筋肉群はえんえんと続いているのです。そしてその頸の筋肉の一部がずっと落ち込んでできたものが横隔膜であります。つまり横隔膜は、蛙がふくらましていた頸の筋肉と親戚のものに当たるということになります。神経をたどっていくと一緒になっているのでわかります。胎児で見ますと頸の筋肉がちぎれて心臓と肝臓のあいだに入り込んでいることがわかります。死体を解剖して頸を見ますと横隔膜を動かす神経と腕を動かす神経が一緒のところから出ています。手の運動と横隔膜の運動は同じところから出ています。また、手と足も中枢神経の仲介で連動しております。
 調和息の時に大切なこととして、姿勢とかあるいはほかの運動との連動が要求されるのは以上のようなわけだと思います。
 良寛の書を見ますと手の運動と呼吸の運動が連動していることがよくわかる。ある一つの作業を体得した時にコツがわかったことを呼吸がわかったといいます。優れた作品というのはこの連動作業が見事に行われているものと思います。

 ここで、われわれの呼吸のリズムの歴史を振り返ってみたいと思います。まず、古生代の昔に脊椎動物が上陸を始めます。かれらがどんなにして上陸したかは古生物学上の大問題ですが、これは一つのストーリーとして聞いてください。例えば波打際にいるとします。波がさし押し寄せ、ある時間波を被り、またさっと引いていきます。つまりここでは海水と空気の状態がリズミカルに交代しますが、この時われわれは、波が引いた時息を吸い、波を被っているあいだは息をぶくぶくと吐く。呼吸のリズムと波の寄せては返すリズム、おそらくこれは脊椎動物の上陸時の出来事として何らかの関係があろうと思います。波のリズムは北氷洋でも南氷洋でも変わっておりません。今から十億、二十億年前の波のリズムと今の九十九里浜のリズムは変わらないと思う。道祖の藤田先生が九十九里浜で波浪息を会得されたそうですが、このリズムは古今東西を問わず悠久に変わらないと思う。このリズムと脊椎動物が獲得した空気呼吸のリズムとは何らかの関係があったと思うのです。
 さて、波のリズムは太陽系のリズムの一つと考えられますが、この太陽系の無数のリズムの中で一番身近なものは日リズムで、われわれの休息と活動のリズムと一致します。これが月のリズムとなると女性の卵巣になります。この卵巣はニ十八日おきに一つずつ卵を放出するのです。いったいこれはどのようなメカニズムで起こるのでしょうか。東京湾のゴカイが一定の月の満月の一定の時刻に一斉に海上に浮かび交尾するとか、また鮭が回遊してサンフランシスコ沖から間違わずに石狩川に帰ってくるとか、動物は一般に時間、空間を確実にキャッチする能力を生まれながらに持っているようです。
 それを今日の生理学者は神経系の生理学、つまり刺激がやってきて、それを感覚器がとらえて脳に伝えるといった工合に解釈しようとしている。ところがイソギンチャクは実験室に持ってきて海と隔ててもちゃんと潮の干満の情報を得ている。また、ジャワで採れた竹がワシントンに送られても、竹は四十四年周期で花が咲くらしいが、本国ジャワの竹が花を開いた時ワシントンの竹もチャンと花を開くという。これはどういう情報の伝達があるのか、やればやるほど、不可思議という答えが出てくる。結局、われわれのからだの細胞は一つの「星」ではないか、という解釈になってしまうようです。
 太古の昔、海水からコアセルベートという一つのまとまりができた。これを再現して分析してみると、地球を構成するすべての元素が含まれている。六価クロムからヒ素にいたる猛毒のものが、少しずつだがすべて含まれている。それが細胞となる。したがってわれわれの細胞の一つ一つが、生きた衛星ではないか、ということになってくるのです。星であるから命令されなくてもちゃんと太陽系の運行のリズムを知っている。つまり卵巣から卵が飛び出すのは、まさに天体が分かれて惑星をつくり、衛星をつくっていくのと本質的に同じことではないかというのです。
 このように見てきますと、ひろく生物のリズムと宇宙的なリズムとは目に見えない糸で繋がってくるのではないだろうか。人間のからだのリズムと天体のリズムが調和した時、つまり春夏秋冬の波に乗って、春は春のものを食べ、夏は夏のものを食べ、その土地その季節の一番シュンのものを食べ、また冬がきたら寒さにふるえ、夏がきたら汗をかくといった生活を送る時、これこそ生のリズムと宇宙のリズムが調和した生物としての本来のすがたではないかと思うのです。
 カルチャー、文化というものは何か。耕す、耕すとは何か。それは、いってみれば一年分の保存食品をつくる準備をすることです。シュンのものを食べないで、いつでも食べられるようにそれを缶詰にするとか、いわゆるインスタント食品をつくるなどその一例ですが、文化というものは、結局は自然から離れていく一つの方向であるような気がするのです。
 お釈迦様の悟りは天のリズムと人のリズムの調和ではなかったかと思う。アショカ王はこれを「人天交接」という言葉でもって表現した。そして国民にひろく教えを垂れ、これを政治の根本理念においたそうです。われわれが将来を配慮して、一年間の食料を貯えるのは、人間だけが持つ一つの智能でしょう。しかしこの智能も一つ間違えると、人間の慾になります。人間の腹をたち割ると“慾と糞の塊”といいますが、ほんとうに慾は人びとを盲目にするものですね。また将来計画といわれますけれど、それは実は「予期不安」であることが多いのです。われわれはこうした慾と不安に駆り立てられて次第次第に自然から離れて、あるいは自然を破壊していくのをお釈迦様は憂えたのではないでしょうか……。
 話が横道にそれてしまいましたが、呼吸のリズムもこれとまったく変わりないと思います。われわれの日常を振り返りますと、このような慾と不安に駆り立てられた時の呼吸には、まったくリズムというものがない。たいていは息を凝らし、さらには息を殺しております。これに対して、平常心の時には呼吸のリズムがあります。これこそ、古生代の昔からえんえんと続いてきたリズムです。それは、はじめにお話ししました、あの波打際の、ザザーツと寄せて、そしてサアーツと引いていく、あの波のリズムです。それこそ宇宙的なリズムではないでしょうか。お釈迦様の呼吸の教えはこのことではないかと思っております。


生命とリズム 三木成夫(河出文庫)より引用